1. ホーム
  2. JA上伊那のご案内
  3. JA上伊那の歴史と遺産
  4. 農協遺産

上伊那の「農協遺産」

旧龍水呉服前の胸像等

養蚕・製糸が盛んだった明治時代の産業組合に始まった上伊那の協同組合運動の歴史を伝える遺産が上伊那各地に散在しています。 今日ではあまり顧みられることの少なくなったこれらを通じ、上伊那の農業協同組合の輝かしい軌跡を振り返ってみましょう。



旧龍水社本社 現㈱グレース呉服販売課[龍水呉服]

大正時代以来の建物、旧龍水社本社

旧龍水社本社建物

組合製糸龍水社の事業が発展してきた大正5年、伊那電気軌道(株)の所有地だったこの一帯を買収し龍水社本社が建設されました。現在は取り壊されてしまいましたが、JA上伊那駒ヶ根支所構内にあった龍水呉服の事務所は大正6年6月25日に落成したもの。当時としては大規模で斬新な大建築でした。 この建物の北側正面には龍水社の先達2人の2基の胸像のほか、二宮金次郎の像や龍水社赤穂工場から遷された火伏の祠もありました。

山田織太郎翁(右)、北原金平翁の胸像

山田織太郎翁胸像

山田織太郎翁=飯島町田切出身、明治6年(1873)~昭和5年(1930)。組合製糸龍水社の生みの親、創立の功労者であり、発展の礎を築いた偉人。県議なども務め龍水社執務中に脳溢血で倒れ、没後従六位を贈られました。その功績を称え昭和12年、彫刻家大田南海により胸像が製作されました。しかし、昭和17年、太平洋戦争の金属供出により銅製の胸像は供出され、代わりに岡山県の陶芸家、井上仰山により陶製胸像を模造。戦後、昭和35年、胸像復元が再燃し、彫刻家、瀬戸団治により昭和35年、現在の胸像が完成しました。

北原金平翁胸像

北原金平翁=駒ヶ根市北下平出身、明治26年(1893)~昭和48年(1973)。戦中、戦後の龍水社を発展させた偉人。赤穂共信社組合長、赤穂町長、全国養蚕販売組合連合会会長などを歴任。山田翁胸像のとなりに同じ材質で作られた胸像です。製作は瀬戸団治、昭和43年除幕。山田翁、北原翁の功績については「龍水社七十年史」に詳しく掲載されています。

北原金平翁胸像略誌

翁は質実剛毅不抜にしてまた情に厚し、その事業経営に当るや周到にしてこれを誤ることなし、昭和五年二月本会理事に選ばれ枢機に参画す、昭和十一年農林省町村組合製糸整理合同促進のことあり、本会も亦これが具体的計画を樹てその実現を図ることとなりたるも町村の組合製糸は夫々歴史を有しその実現は容易にあらず、翁はこれが難局を打開する最適任者として選ばれて昭和十一年十一月本会会長の要職に就任せらる。
翁就任するや身を挺してその難局に処し自ら陣頭に立って東奔西走遂に昭和十三年五月南部十一組合を統合し設備三百釜の赤穂工場を建設操業するの大事業を成しとげ予期の成果を収めたり。この成果は第二次合同を促進するところとなり翌十四年一月残る十組合の合同参加により上伊那に於ける組合製糸の整理統合成り、生糸共同荷造委託販売の事業から連合会自ら製糸事業を経営するに至れり。
爾来二十七年の永きに亘り本会を主宰し名実共に協同組合製糸の理念を貫かれ、その経営に当るや経営基礎の確立、養蚕農家の福利増進、従業員の福利増進及びその教育の徹底の四大方針をもって社是となし、これが遂行に心血を注がれたり。
龍水社今日の隆盛を見るに至りしもその誠に翁の卓越せる指導力と実行力の賜と謂うべきなり。翁は又この間にあって戦前の全国組合製糸の生糸販売機関日本生糸販売組合連合会の復元に尽力しこれが設立と共に、会長の要職におされ今日の糸連を築きあげ、更には全国養蚕販売組合連合会長として養蚕の振興、蚕繭処理の合理化に尽粋せらるる等蚕糸業界に貢献せらると共に、組合運動の推進に終始一貫せられた翁の功績は誠に偉大と謂うべく藍綬褒章の受章、ついで享けらるる等所以の存するところなり。
今回本会に於ては多年に亘る翁が功績を讃え庭前に胸像を建立し永えにこれを頌し伝うるものなり。
会長理事 代田初造 謹誌

共存同栄の碑 JA上伊那春富支所前

JA春富支所の前に建つ「共存共栄」の碑

JA上伊那東春近支所の前身となった上伊那合資会社が明治31年7月1日に設立されて以来、平成10年7月で100周年を記念して建立された碑。碑面には「共存同栄」と刻まれています。その後、明治38年6月22日に産業組合法に基づく有限責任上伊那生糸販売組合が認可され、幾多の変遷を経て今日のJA上伊那東春近支所となりました。碑の裏側には創立から現在までの組織の変遷が刻まれています。
※東春近支所は平成22年に春富支所に名称変更されました。

丸山友弥翁胸像 JA上伊那箕輪町支所正面玄関脇

JA箕輪町支所正面玄関にある丸山友彌翁胸像

丸山友弥翁=箕輪町大出出身、慶応元年(1865)~昭和2年(1927)。明治38年、産業組合法が公布されるに伴い有限責任大出購買組合を設立。一切の公職を辞して組合の育成発展に尽力しました。組合はその後、区域を八乙女、沢、松島、木下と拡張、大正12年に中箕輪全村が区域となりに有限責任中箕輪信用購買利用組合となりました。昭和22年に組合長を辞するまで22年間寝食を忘れて組合の基礎を築き、その功績を讃えて胸像が建てられました。
平成20年3月31日、「JA上伊那事業体制の再構築」により中箕輪の農協発祥の地、JA上伊那大出支所は廃止となりました。

胸像礎石裏側銘文

丸山友彌翁慶應元年本村大出區ニ生ル彌源次氏の長子ナリ資性温厚篤實衆望ヲ 負ヒテ幾多ノ公職に就ク退イテハ農村ノ經済更生ニ專ラ意ヲ注ク偶産業組合法 ノ発布セラルルヤ同志大槻倉太郎丸山音藏有賀久吉土橋善太郎北川式十郎唐澤 榮一郎ノ諸氏ト諮リ産業組合ヲ創立シ推サレテ組合長トナリ括据經営實ニ二十 有三年事績大ニ擧カリ産業開発ノ功ニ拠リ表彰セラルルコト■次昭和二年五月 二十八日歿ス壽六十三歳翁ノ後半生ハ擧ケテ産業組合事業ニ貢献シ本組合カ今 日ノ隆盛ヲ見ルルハ翁ノ力に倚ル所洵ニ大ナリ茲ニ皇紀二千六百年ヲ迎ヘテ三 十五周年ヲ記念スルニ方リ組合員胥諮リテ温容ヲ百世ニ傳ヘ遺徳ヲ千載ニ頌ス ト云爾
昭和十五年十一月 保證責任中箕輪信用販賣購買利用組合
翁ノ像ハ昭和十八年ニ至リ第二次世界戦争ノ為ニ徴發セラレタルモ漸ク平和モ 回復シ本組合ノ創立五十周年ニ方リ礎石ヲ大出ノ城山公園ヨリ移シ原型ヲ改メ 茲ニ再ヒ温容ヲ建立スル次第テアル
中箕輪農業協同組合
■は「しばしば」の古い字

一力社記念碑 駒ヶ根市馬見塚公園内

馬見塚公園西側にある一力社記念碑

保証責任赤穂生糸信用販売組合一力社は赤穂村の南部(南割・小町屋・市場割・上赤須)を区域として大正4年に設立。昭和14年に赤穂信用販売組合共信社と合併しました。

碑裏側銘文

名称 保証責任赤穂生絲信用販賣組合一力社
設立 大正四年十二月二十七日
組合区域 福岡 小町屋 南割 市場割 上赤須
組合員数 四百餘名
業績 本組合ハ設立以来二十四年間区域内ノ産繭ヲ加工シ生糸トナシ聯合會ニ龍水社に委託販売シ組合の養蚕経営ヲ合理化シ併テ組合員ニ必要ナル経済資金ノ融通及ビ貯金ノ便ヲ得シメ其福利増進ニ寄与シタリ然ルニ時勢ノ変改ハ村内産業組合ノ分立ヲ許サズ為ニ本組合ハ大集的見地ヨリ昭和十三年十二月二十八日本組合ヲ解散シ翌十四年五月共信社ト合併セリ拠テ畧歴ヲ記シ永ク後昆ニ傳フ
昭和十四年五月二十三日建立
組合員代表 福澤■之ヲ誌ス
(■は喬の右に力)

信用組合共信社記念碑 駒ヶ根市馬見塚公園内

馬見塚公園西側にある一力社記念碑

共信社の第六年度報告書と定款(大正10年)

赤穂信用販売組合共信社は大正4年、前述の一力社の区域を除く赤穂村を区域として設立。昭和14年に一力社と合併しました。戦後の昭和34年、赤穂農協が先人諸賢の理想と歴史を偲びこの碑を建立しました。場所は馬見塚公園内、蚕玉神社南側です。

碑裏側銘文

沿革  赤穂信用組合は初代組合長故生田大助氏、次いで芦部文蔵氏によって遠く明治四十四年設立され、信用事業を中心とし後購買利用事業も経営して赤穂村の農工商経済の発展に努め県下稀に見る事業成績を収めていた 共信社は農家経済の重要な部門を占めていた繭の販売を有利にする為産業組合法に基き故小平一雄氏を初代組合長として大正四年十二月創立翌年春挽より三十七釜の組合製糸として発足した。当初は赤穂村の北部並びに中沢村を区域とし組合員二百二十八人であったが郡下他組合に率先して蚕の品位向上と工務の改善に力を尽し生糸は龍水社を通じて販売し大正七年七月には事業内容を製糸の外、米穀の集荷販売及び信用事業にも拡大して順調な発展を遂げ昭和七年には其の規模も織田式十條百二十釜に達したのである。昭和十二年赤穂村南部を区域とする一力社との合併によって農村部の統一を図り翌十三年上伊那を一円とする龍水社の合同繰糸に参加するに至った。 昭和十七年関係者の努力によって村内輿論も一村一組合の機運に乗り同年十二月信用組合及び共信社は共に発展的解散し此処に全村待望の四種兼営保証責任赤穂信用販売購買利用組合の設立を見、初代組合長に共信社以来歴任した北原金平氏を選任し翌十八年十二月戦時立法の農業団体法により解散に至るまで赤穂地域の産業組合として其の成績を挙げたのである。爾後昭和十九年農業会が設立され一時自主的組織は中断されたが終戦と共に昭和二十三年四月改めて農業協同組合法に基き当組合を設立して今日に至っている ここに先人諸賢の理想と歴史を偲びこの碑を建立する次第である。
共信社の第六年度報告書と定款(大正10年)
昭和三十四年十一月  赤穂農業協同組合
下諏訪町社区東町  石匠 唐木正人

蚕蛹供養塔 駒ヶ根シルクミュージアム西側

駒ヶ根シルクミュージアム西側の蚕蛹供養塔

もともと駒ヶ根市北町にあった龍水社赤穂工場構内(現トヨセット駒ヶ根工場)にあったもの。昭和45年に龍水社が蚕や蛹に感謝する意味で建立しました。

碑裏側銘文

それ蚕糸の業は遠く神代より伝わり我が国重要産業の一にして平安の昔信州は鹿糸の貢地たりしことあり 代々その業を継ぎ発達せり 上伊那郡下においては明治中期より大正にかけこの業最も盛んとなりその後消長はありしも農家の重要なる生業とも県下に覇たるに及べり この間郷党の先人大いに観ることあり 大正三年龍水社を創立し郡下組合製糸を統合一本化し養蚕家と結束しこの業の合理化を大いに図り経営を密にしその振興に努め今日の龍水社を見るに至れり かくて養蚕家の福利は増進せられ従業員の厚生亦厚く龍水社の基礎はますます堅くその国家社会に貢献すること極めて大なり これを思うに吾等蚕より受けし恩澤誠に大きく古くよりお蚕神を頌之来りしもむべなり 吾等蚕糸の業たづさわるものその絶大なる恩恵に浴せると感謝し所謂身を殺して仁をなせる数限りなき蚕蛹をいとおしみここに深く報恩を想い厚く供養してその霊を慰むるものなり
昭和四十五年十一月三日 龍水社

赤羽正喜氏顕彰碑 伊那市手良中坪

生家の前にある赤羽正喜氏顕彰碑。題字は堀内巳次氏

赤羽正喜氏=伊那市手良中坪出身、大正7年(1918)~平成18年(2006)。伊那農協組合長など要職を歴任しました。その業績を後世に伝えようと平成8年に顕彰碑が建立されました。

副碑銘文

赤羽政喜氏は 大正七年九月二十四日 手良村中坪に 父春次郎 母よしの次男として生まれ 昭和十一年長野県上伊那農業学校を卒業し農業に従事した 同年 朝鮮会寧歩兵第七十五連隊に入隊 第二次世界大戦時はトラック諸島に転戦し 復員後は再び農業に専念した 昭和四十二年 手良農業協同組合組合長に就任 昭和四十七年一市一村八農協の合併にあたり 卓越した指導力と行動力を発揮して伊那農業協同組合の設立に大きく貢献した 昭和五十一年 組合長理事に就任以来 平成六年退任までに カントリーエレベーター 選果場 生活センター等数多くの施設を建設し 伊那農業協同組合を県下屈指の良質米産地に育成すると共に 園芸産地づくり等を推進し 農協の経営基盤強化に積極的に取り組んだ さらに 長野県農協中央会及び各連合会理事を歴任し昭和六十一年から九年間 長野県農協組合長会会長の要職に就き 県下農協界に尽くした功績はまことに大きい 平成三年からは 全国農協カントリーエレベーター協議会会長として 全国の稲作生産者はもとより 消費者の為になる米作りの育成強化に大きく貢献した この間 全国農業協同組合中央会功労章 長野県知事表彰 長野県農協緑色功労章などを受章した 昭和三十五年手良農業協同組合理事に就任以来三十有余年この道一筋に地域農業の振興と農協運動に尽くした功績が認められ 平成七年十一月 勲五等双光旭日章受章の栄誉に輝いた ここに同士相諮り 氏の偉大な業績を永く後世に伝えんと 経歴の一端を刻し顕彰碑を建立する。

畜魂碑  美篶花卉選花場構内

美篶花卉選花場南西にある畜魂碑

家畜に感謝し、その霊を供養するために建立された碑。各地に畜魂碑は見られますが、この碑は美篶農協により昭和39年に建立されたもの。「農林大臣 赤城宗徳書」とあります。この赤城宗徳は安倍政権下で農林水産大臣を務めた赤城徳彦氏の祖父に当ります。

碑裏面銘文

昨今主穀増産に偏重して営農は日を追って困窮を加えつつある現在此等苦境を克服せんが為農家は家畜を労力より経済向上の基盤へと移行し畜産等を大幅に導入し遂年その効果をあげつつある。即ち我々農業者は凡そ経営に関係ある動物の恩恵により生活を保ち経営を発展せしめている。ここに其霊を慰め且つ感謝の意を表し以て畜産養蚕の益々発展を願ふ声関係者一同より起こりたる事は又当然の事であって美篶農業協同組合は相計り全組合員協力し畜魂碑を建立した由縁である
昭和三十九年十一月三日 美篶農業協同組合

産業組合の鬼瓦  JA上伊那東伊那支所東側

産業組合時代の「産」の文字が入った鬼瓦

JA上伊那東伊那支所の東側軒下にある瓦。産業組合と思われる「産」の文字が中心に描かれています。5個ほどあり、一番大きな立派なものが庭石の上に鎮座しています。
平成2年に取り壊された旧事務所の屋根にのっていたものといわれています。

畜魂碑  宮田カントリーエレベーター東

宮田の畜魂碑

JA上伊那宮田カントリーエレベター東にある畜魂碑。家畜に感謝、供養するため昭和45年に宮田農協が建立したもので、平成10年、加藤養豚構内から現在地に移転されました。

山田織太郎翁碑  飯島町田切 聖徳寺西方の林の中

高さ5m、巨大な山田織太郎翁碑

山田翁の功績を刻した副碑

産業組合製糸の大黒柱、山田織太郎翁の功績を讃える建碑は翁の生前から提案されていましたが、太平洋戦争に突入し実を結ばず、戦後、龍水社と飯島村が発起人となり昭和27年5月10日、翁の命日に除幕された巨大な石碑です。碑の揮毫は有馬頼寧。
日本生糸販売農業協同組合連合会をはじめ、県下、全国の農協連合会など38団体の協賛を得たもので、中田切川上流から引き出した高さ約5メートルもの巨石です。今は訪れる人もない草の茂った林の中に、山田翁ゆかりの孔子像とともに静かに佇んでいます。

副碑「山田織太郎翁ノ事績」

山田翁諱ハ織太郎長野縣上伊那郡飯島村ノ人明治六年六月二十日ヲ以テ其郷ニ生ル父ハ﨑太郎母ハ堀内氏翁ハ其ノ長子ナリ幼ニシテ頴悟挙止成人ノ如シ弱冠夙ニ其裘ヲ襲ギ桑麻ニ従フ年十九選バレテ村ノ勧業委員ト為リ翌年農談会幹事ニ當選又公職ニ在リテ孜々念他事ニ及バズ然カモ脳裡成竹アリ異日ノ大計ハ即ニ此ノ時ニ決スルナリ爾来治村ノ要職郡区ノ委員縣会ノ議員ニ當選スルコト数次長キハ在任三十余年ニ及ブモノアリ以テ行止ノ恒アルヲ知ル可シ當時翁ノ実施スル經綸ノ諸策ハ郡村農会ノ設立養蚕組合ノ組成耕地ノ整理道路ノ改修造林計画ノ樹立耕作地区ノ交換部落有財産ノ統一低利資金ノ融通等制度ニ関スルモノヲ始トシ苗代ノ改良試験田ノ設置自給肥料ノ考案水稲優良種ノ普及等諸般ノ要目枚挙ニ遑アラズ共ニ農村ノ振興ニ裨補スルモノナリ翁ハ又常ニ帰農思想ノ涵養ト勤労慣習ノ馴致トヲ以テ青年ヲ指導シ他面郡立簡易農業学校村立実業学校ノ創設ニ参画シテ意ヲ実業教育ノ普及ニ致セリ且風紀ノ向上ガ郷村ノ隆替ト至大ノ関係ニアルニ想到シ婦人会戸主会青年会敬老会等ヲ組織シ敬神崇佛ノ思想的根拠ノ下ニ良風美俗ノ育成ニ力メタリ事先後終始有リ頗ル古人修治ノ意ヲ得タルモノト謂フ可シ飯島村ハ中田切川ノ流域ニ在リ川ハ天龍ノ一支流ニシテ河床高ク豪雨一タビ至レバ濁浪奔馳二百余町歩ノ沃野一朝ニシテ泥土ト化スルコト古来然リ翁深ク之ヲ憂ヘ一身ヲ挺シテ治水ノ難事ニ当リ或ハ当路ニ建言シ或ハ地主ニ勧説シ前後三十四年日夜盡瘁遂ニ克ク堤防ノ修築ヲ完成セリ沿岸百余戸ノ居民因テ以テ其堵ニ安ジ附近ノ道路橋梁永ク破失ノ患ヲ免ガレタモノ皆翁ノ賜ナリ大正三年翁起チテ聨合会龍水社ヲ創立ス正ニ畢生ノ志業ナリ伊那ノ地ハ素ト蚕桑ヲ以テ縣下ニ鳴ル是ヲ以テ桑園改革蚕種統一乾繭保管等ニ三ノ施策ハ夙ニ識者ニ試ミラレタレドモ蚕繭處裡途未ダ確立セズ斯業ニ従事スルモノ徒ニ労多クシテ益少キヲ憾ムコト久シ翁之ヲ憂へ明治四十四年産業組合ニヨル組合製糸ヲ自村ニ設立シ積弊ノ除去ニ力ムルト共ニ各地ニ勧説シテ同種組合ノ設立ヲ促ス所アリ斯クテ郡内数所其設立ヲ見ルヤ翁ハ更ニ此等ノ連合ヲ提唱シ因テ以テ製品ノ統一ト販売ノ協同トヲ計レリ是即チ今ノ龍水社ナリ翁既ニ選バレテ会長トナリ営々トシテ社務ニ鞅掌ス周密ナル企画ト勤勉ナル努力トハ日ニ社運ノ隆盛ヲ来タセリ今日所属組合を算スルコト二十九製糸販売總額五万一千貫ノ多シニ及ブ是ヨリ先キ翁外遊ノ挙アリ欧米産業界ノ実情ヲ調査シ大勢ノ趨ク所常ニ経営合理化ノ一途ニ帰スルヲ知ル当時又邦内各地既ニ範ヲ龍水社ニ採リテ組合製糸ヲ組織スルモノ簇生シタレバ翁ハ一面此等ノ指導育成ニ任スルト共ニ他面之ガ一大統合ヲ提唱シ昭和二年大日本生糸販売組合連合会ヲ組織シテ販売ノ統一製品の直輸出ヲ計レリ全国同業ノ当事者皆其ノ功ヲ偉トシ其ノ恵ヲ徳トシ茲ニ規模アリ先見アル翁ノ志業ハ其ノ大成ヲ見タルナリ昭和五年五月十日翁龍水社ニ在リ突如疾發リテ不起ニ終フ享年五十有八当路褒賞先ニ藍綬章ノ授与有リ今亦従六位ノ追叙アリ著ニ家久餘慶之記アリ年四十ニノ作俚俗厄拂ニ托シテ修身ノ斉家處生ノ要道ヲ説クルモノ称シテ自省ノ書ト曰フト雖モ正ニ翁践履ノ実録ナリ夫人やす江原氏六男三女アリ翁天資篤実素履醇厚寛容以テ人ニ接シ厳毅以テ己ヲ持ス常ニ農村改善ト産業ノ振興トヲ以テ己ノ任ト為シ広益開務言私ニ及バズ其事ヲ挙グルヤ明徹克ク時運ノ大勢ヲ洞察シ堅忍以テ幾次ノ難険ヲ善断ス洵ニ練達ノ老方ト謂フ可シ深ク郷里ヲ愛好シ恵澤郷民ニ及ブ遺化遠ク流風長シ曩ニ龍水社飯島村唱者ト為リ建碑成リ行畧ヲ不朽ニ傅フ特ニ偉績ヲ飾ルニ非ズ亦以テ来者ノ矜式ニ資セントスルモノナリ
文学博士 諸橋轍次撰文

南箕輪支所前の岩

南箕輪支所前の3つの火山岩

JA上伊那南箕輪支所の正面玄関前に3つの岩が鎮座しています。農協法公布ニ十周年を記念し、当時(1967)の役職員の浄財により設置されたものです。
当時、農協の輸送部では農閑期に大谷石を組合員宅の塀などに斡旋していたこともあり、この岩は輸送部の職員が浅間のほうから運んできた火山岩だそうです(征矢福二氏談)。一番南側の岩には51名の職員の芳名を記した銘板が、一番北側には「組合長理事 征矢善一郎」はじめ幹部職員10名の芳名の銘板がはめこまれています。

昭和病院 【現昭和伊南総合病院・駒ヶ根市】

現在の昭和伊南総合病院(駒ヶ根市)

現在の伊南行政組合 昭和伊南総合病院 (駒ヶ根市)はもともと、長野県厚生農業協同組合連合会昭和病院でしたが、昭和38年3月31日、駒ヶ根市、飯島町、中川村、宮田村による伊南病院組合に譲渡されたものです。
昭和8年、全国町村会長であった福沢泰江赤穂村長(産業組合長兼務)が上伊那南部の西春近ほか11カ村の産業組合の賛同を得て、昭和9年に有限責任購買利用組合昭和病院として現在の駒ヶ根市総合文化センターの場所に開院しました。当初組合員は西春近・宮田・伊那・中沢・赤穂・飯島・七久保・上片桐・片桐・南向・大鹿の各村の2,500人でしたが、昭和11年には上伊那全域の5,000人を超えていました。昭和16年の火災により保証責任長野県信用販売購買利用組合連合会が再建、事業を委譲。昭和25年より長野県厚生連昭和病院となりました。昭和33年秋頃から伊南4市町村直営にという機運となり、昭和38年、上伊那南部病院組合(現、伊南行政組合)に委譲、昭和伊南病院と改称され、長野県厚生連の病院は上伊那から消えました。この経緯は長野県厚生連30年史に詳しく載っています。
それから約半世紀、平成20年4月、伊那市美篶に長野県厚生連富士見高原病院付属みすず診療所が開所を迎えました。

これらの農協の歴史を顧みることで、農業協同組合を築いてきた先人たちが何を目指してきたのか、JA綱領にいうところの「協同組合の基本的な定義・価値・原則」を再確認することにつながるのではないでしょうか?
お近くに「農協遺産」がございましたら、JA上伊那企画広報課までご一報をお願い致します。